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22/02/05 「悪魔と永遠」開演に寄せて

2022/2/5、下北沢 本多劇場

この日、劇団東京夜行の上演する「悪魔と永遠」を観劇に、下北沢は本多劇場を訪れました。

東出昌大氏が出演する、約1年3ヶ月ぶりの舞台です。

コロナ禍が生活に忍び寄ってきてから丸2年、そして何度目になったかも忘れた「まん延防止等重点措置」が発令されて2週間。
舞台方も観客も、誰しもが不安だったとは思いますが、粛々と初日の幕は上がりました。

私にとって、とても強烈な観劇体験となりました。それをブログにしたためようと思い立った次第です。

あらすじ

平凡なサラリーマンである東出演じる鞍馬正義は、春の決算を終え、一年に一度だけ羽目を外す。
そしてクラブでたまたま出会った”不思議ちゃん”な若い女性マリアと、酒の勢いでドラッグに手を出し、雑居ビルの屋上から共に投身自殺を企ててしまう。

マリアは亡くなり、生き残った正義は、薬物使用と自殺幇助で懲役4年。
出所し、「生まれ変わってやる!」と足場鳶としてまじめに生きて行こうとする。

ところがそんな彼には、マリアの幽霊が纏わりついていた。
「あんた悪くないよ」と語りかけ、時にコミカルに、真剣に、正義の生活に寄り添い続ける。

(フライヤー記載のあらすじに、一部脚色)

所感

「良い人」というレッテル

レッテル貼りという言葉がある。
辞書によれば「一方的にその人物の人格や能力などの格づけをする。」という意味らしい。一般的には、マイナスイメージの言葉と合わせて使われることが多いと思う。

「良い人」という言葉がある。一般的には、ポジティブなイメージだ。

良い人とは一体何なのか。誰にとって「良い人」なのか。
それを深く考えさせられる物語だった。

それは、体のいい呪詛だ

正義は爽やかな好青年、まさしく「良い人」である。
周りは彼を「良い人」だとみなし、彼自身もまた「良い人」であり続けようとする。
私はその「良い人」という言葉に、あえてマイナスイメージな「レッテル貼り」という言葉を結び付けたいと思った。

「良い人というレッテル」は、体のいい呪詛のように感じられた。

それが故に生まれたひずみが、この物語の根本に見えた。

善人なんてやめてしまったほうがいい。
私は正義を見て、正義としての台詞を涙ながらに紡ぐ東出を見て、そう願いたくなった。

とはいえ、作中には懐の広い「良い人」もいて、そこには心暖かさも感じる。
だから、一概に善人なんてやめたほうがいいと結論付けることはできない。

安直に、思考停止的に、割り切って語る「模範」や「道徳」として本作を消化してはいけない。
私はそう思う。

簡単な答えは存在しない

「罪を犯し、罰を受けた人がどうやって生きていくのか」
これは、本作の紹介で、演出家の川名氏が繰り返し触れた言葉だ。
その問いかけに対して、明確な一つの答えというのは存在しないだろう。
それを示す通り、作中にもいくつかの例が示されているが、これが正しいという答えは示されていない。

「頑張るしかない」
その言葉は時折レッテルとなり、枷となり、時には傲慢さともなる。

「頑張れ」「大丈夫」
その言葉は時折残酷な響きとなる。

そういったあらゆる「安直さ」に対する多面的な答えの提案が、本作だったのではないのか。
私にはそう感じられた。

雑感

シンプルな舞台セットから色鮮やかな風景が浮かび上がり、テンポよく進むストーリーに、「次はどうなるのだろう」とハラハラさせられて展開を楽しむことができました。

私は初日のソワレ・マチネと鑑賞しましたが、二度目の鑑賞で、緻密に設定された伏線に気付かされる快感すら覚えました。幸いにもあと3公演控えているので、また様々な角度で見ていきたいなと楽しみにしています。

また、重い台詞や考えさせられるシーンも多く、可能であればソフトとして手元に置いておきたいとも感じさせられました。

「演劇」は新鮮なナマモノであることはわかっています。
しかし、未来の自分が、今と違う自分が、この作品をどう受け止められるのか、それにも期待させられるのです。

もし拙文が関係者様のお目に留まることがありましたら、ぜひソフト化をご一考いただければ幸いです。

参考リンク

hochi.news
engekisengen.com